タルホピクニック随行記

2025/3/9(日)- 3/23(日)
12:00 - 19:00

黒須信雄 経歴
川田夏子 経歴
森千咲 経歴

アーティストトーク

あがた森魚氏主催の、楽器を奏でながら飛鳥山(東京・王子)を練り歩く、月一回開催のイヴェント「タルホピクニック」に随行し、音楽または音をできる限りそのままヴィジュアルとして記述する試みの記録。

「タルホピクニック番外 あがた森魚と出品作家によるトーク&ライブ」
あがた森魚 黒須信雄 川田夏子 森千咲
3月11日(火)18:00-20:00(開場17:45, 開演18:00)定員20名 *事前予約制

黒須信雄

「タルホピクニック随行画譜 Vol.1,4,6,7,10,11,13,15」ミクストメディア 2022~2024年

タルホピクニック随行記 
黒須 信雄 

タルホピクニックとは、あがた森魚氏の主催する音楽イヴェントの名称で、2020年から2024年まで月に一度、江戸期には桜の名所として浮世絵にも描かれた王子の飛鳥山で開催されてきた。(2025年現在も幾分かたちを変えて継続している。)ピクニックの由来は音楽を奏でながら公園内を練り歩くことから、タルホは云うまでもなく稲垣足穂で、その誕生日12月26日に因んで當初開催日を月末の日曜日に設定したとのことである。(その後は必ずしも月末の日曜と限定されているわけではない。)時折「タッチとダッシュ」に基づくパフォーマンスが行われることがあるが、基本的には飽くまで音楽散歩である。にも拘らず、私は一度も音楽を奏でたことはない。抑々美術(殊に絵画)と音楽(若しくは音・音素)との関係を探る寄る辺としたかったからである。
 尤も、最初の参加は一種のパフォーマンスのようなかたちでだった。それは、私を含む三人の美術家が模造紙で作った八角錐の衣裳を被り天辺から頭を側面から両腕を出し、更に円錐の尖んがり帽子を被って、歩きながら音楽に合わせて互いの衣裳に絵を描き合うと云うもので、アイデア源は1916年フーゴー・バルが自作の音声詩を朗読した際の衣裳なのだが、実際の処はまるで似ていない。第一、バルのそれは円筒を基本形としており、円錐や角錐のように上部で窄まるものではない。その円筒は稲垣足穂云う処のOA円筒に通じるものだが、出口入口の等価性と置換性を缺く円錐や角錐はそうではない。更にバルのそれは、両脚を包むのは空色のボール紙だし、厚紙でできた肩掛けマントは内側が緋色外側が金箔貼り、頭の上には円筒状の赤白だんだら模様のシャーマン帽と〈絢爛〉たるものである。如何にも安手な模造紙のヨレヨレ衣裳とは雲泥の差だが、このいい加減さもダダ的と云うことにして置こうか。とは云え、バルに依拠したのは必ずしも故なしとはしない。トリスタン・ツァラのダダ的実験詩が、言語を音素にまでは還元しないことに拠り関係性に於ける意味作用を宙吊りにし、言葉それ自體としてのイメージを創出したのに対し、音声詩は最早言語としてのイメージ創出には与らない。それは慥かに言葉と音楽の〈あわい〉に存するのだ。但し、あらゆる藝術的範疇は自體的自律的であり、本質的に混淆することはあり得ないから、この〈あわい〉は一個の逆説なのだ。このことを絵画と音楽との関係に敷延することは如何ほどに可能なのか、この問いからタルホピクニック〈随行画譜〉は企図されることとなった。
 異なる媒體に立脚する藝術的範疇が相対した場合、単純な二項対峙は形成されない。何となれば、それらは存在論的〈形式〉に於て異なるからである。原則的には、音楽を絵画に置き換えることも絵画を音楽に置き換えることも不可能なのである。音楽に〈触発されて〉描かれた絵画とは〈絵画的〉表現としての閉塞に於てのみ音楽を消化しているに過ぎない。音楽と絵画の〈あわい〉を探ろうとするなら、まずは表現と置換が放棄される必要があり、そのためには〈触発〉からのイメージ転換ではなく、単に記述することに拠る外的イメージの切断が方法的に採用されなければならないだろう。然るに、記述は顕現を招来することはないので、それは絵画としては実現しない。乃ち、些かも表現は減退し得ない。とすれば、この場合に表現を放棄するには、個々の表現を等価的且つ相殺的に混淆させる何らかの処置が求められる。随行画譜に於て、毎回異なる〈表現〉方法が採られているのはそのためである。そして、それが〈全體として〉相殺されるための等価性を個々の表現に齎すには、それを一種のレディ・メイドとして規定する必要がある。記述を記述のみとして成立させるのは表現とイメージの死物化と石化なのである。これが藝術的範疇の置換に替わる〈処在のない〉置換となる。従って精確には、随行画譜は作品でも絵画でもないし、個々の独立性もない。亦、全體と云うものも確定し得ない。現時點ではVol.19までの個別的記述が全體を成すものの、仮に今後記述が追加されることがあっても、毎回その都度の総数を以て全體とされ、その性格は現時點のものと些かも変わることはない。端からそう規定されているからである。
次に、それぞれの〈記述〉の素材・形状・描法等について簡単に記して置く。それぞれが如何にしてレディ・メイドとしての表現様式と結ばれたかに関しては、私の記憶を介在させると云う限定性から主観性の刻印は否めないものの、個物が個物性を全體として保持し得ないとき乃ち如何なる分節も無効となるとき、記憶も亦物質として更には物體としてすら〈私〉から切断されるのではないか。
Vol.1 奉書紙を継いで巻物状にしたもので、2022年7・8・9月の三回に黒の筆ペンで描いたものを一巻に纏めた。全體で二十メートル程ある。
 Vol.2 グラフ用紙に九色の耐水ペンで音楽及び〈歩行する身體〉に基づき點を打っていき、帰宅後に用紙を蛇腹状に継いで、それぞれの色ごとに雲形定規を使い曲線で同色の點同士を繋ぎ合わせたもの。2022年10月。
 Vol.3 グラフ用紙に四色ボールペンで、それぞれの色の四本の曲線が最初から最後まで途絶えることなく描かれたもの。帰宅後。蛇腹状に紙を継いだ。2022年11月。
 Vol.4 奉書紙にコンテを使い地面などをフロッタージュし巻物に仕立てたもの。2022年12月。尚、この日は随行するのではなく、公園内の樹木の幹の処々に石膏テープを巻き付け型取りした円筒状物體を、冬の間止められている噴水の周囲に配置して待機、音楽隊を迎えて簡単なパフォーマンスをした。型取りの参加者は、安藤順健、川田夏子、黒須信雄、森千咲、山内みゆきの五名。型取りした石膏テープは黒須が箱状のオブジェ「うつろの型取り」として仕上げた。
 Vol.5 横位置にした白ボール紙の上半分にモデリングペーストを塗り、その上にアクリル絵具の黒を塗り重ねたものに、鉄筆でスクラッチし、更にそれをフロッタージュして下半分に貼り込んだもの。木箱に収納。2023年1月。
 Vol.6 木箱の中に表面を白く塗った厚紙の円筒を八本、回転するように設置し、回転させながら水彩絵具で描いたもの。鑑賞時も回転させながら見る。2023年2月。
 Vol.7 木製の立方體(一辺1.5センチ)の六面を異なる六色に塗り分け、横十二個縦九個、合計百八個を箱に納め、それぞれ同色が同一面に揃った状態で白ペンで線描し、その後に色がばらけるように配置し直したもの。2023年3月。
 Vol.8異なる色の色紙を複数枚繋いで置き、紙と紙の間に全てカーボン紙を挟んで一番上の紙に黒のボールペンで線描したもの。2023年4月。
Vol.9 束見本の各頁に、指サックをした人差し指と中指と薬指にスタンプインクを付けてリズムに合わせ叩くように捺し続けたもの。2023年6月。
Vol.10 深めの紙皿を二枚、縁の処で貼り合わせ、黒の耐水ペンで線が重ならないように途切れることなく一筆書きしたもの。広めの余白は黒く彩色。2023年7月。
Vol.11 透明塩化ビニール板七枚に七色のカラーマーカーで線描したものに厚紙の白枠を付け、七枚を出し入れできる木枠に収納。透明地の七枚を差し替えながら観ることで、屋外で移動しながらの演奏に於ける環境との関わりを想像上で追体験すると云うコンセプトに基づくもの。2023年8月。
Vol.12 市販のスクラッチボードに木の棒でスクラッチしたもの。2023年11月。
Vol.13 大きさが異なる八角形を底面と上面とし、細い鉄の棒を構成要素とする籠をふたつ、上辺同士で貼り合わせ、鉄枠すべてにタコ糸を巻き付けて補強したあと、コバルトブルーのアクリルガッシュで着色して、内部に発泡スチロールの球體を複数個浮かせるように配置したものを事前に用意し、音楽に合わせて発泡スチロールの球に青いペンで點を打ち続けたもの。2023年12月。
Vol.14 バリ島産の粗目の茶色い漉き紙に白と黒のマーカーを使い線描したもの。畳紙に収納。2024年1月。
Vol.15 プラスチック製の卵(白・薄黄・薄青・薄緑・薄赤の五色)に六色のマーカーで線描し、金属蓋付きプラスチック容器に収納したもの。2024年2月。
Vol.16 多色のスタンプインクを海綿に吸わせて紙に押し当てる方法で、音素としてのリズムを主要素に制作し、蛇腹状に繋いだもの。2024年4月。
Vol.17 金と銀の折り紙を厚紙に貼り中心から縦に半折りしたものを基本単位として屏風状に仕立て、金には赤、銀には青のマーカーで描いたもの。二つで一組。2024年5月。
Vol.18 予め蛇腹状に仕立てた画用紙に、同時に描けるように養生テープで固定した十数色のクレヨンを叩くようにして描いたもの。2024年12月。
Vol.19 百枚余りの名刺大の紙を製本し、最初の頁から最後の頁まで一本の黒線が繋がるように描いたもの。上製箱入り。2025年1月。
以上がタルホピクニックに於ける私の記述の全てであるが、改めて思い返せば、その時々の気候や公園内のざわめき、近くを走る路面電車や自動車の気配、毎回些しずつ違う参加者と演奏、歩きながら描くと云う不安定さ、場所柄使用可能な画材の限定までも含めて、これらは皆〈生きた場〉であって、そうしたさまざまな偶さかの事どもが〈記述〉に深く反映していることは否めない。平生から私は制作時に音楽を流していることが多いけれども、嘗てアトリエ内で音楽を〈記述〉しようと考えたことはない。おそらく音楽と美術の〈あわい〉は二項対峙の〈あいだ〉には存せず、複合的で直接的な〈場〉と関係性の錯綜こそそれを招来する契機となるものなのだろう。そうした點からも得難く面白い経験をさせて貰ったと思っている。
今回、展覧会と云うかたちで〈記述〉されたものの全てを網羅的に確認して一連の試みは取り敢えず終息する。とは云え、それは次の試みへの布石でなければなるまい。終わりは亦始まりでもある。だから、この一文を終えるにあたっては「弥勒」の主人公江美留に倣ってこう云って置こう。そう、「終わりの気分が好き」、と。
                                       2025年2月23日

川田夏子

「タルホピクニック202206/202207」紙に水性インク 2022年

タルホピクニックをめぐる音と色の冒険

川田夏子    

 タルホピクニック。王子の飛鳥山公園を、あがた森魚さんを先頭に楽器や鳴り物を持ち寄り演奏しながら練り歩くその行いは、2020年6月から始まったという。コロナ禍で音楽活動の場を失ったことに端を発した密かな実験は、いみじくも音楽というものの特性とその効果を実証することとなった。公園と云う場の性質もあると思うが、親子、特に子どもの反応は大きく、音の波動やリズムに敏感に反応する姿は感動的ですらあった。
 タルホピクニックのお誘いを受けたとき、ちょっと躊躇してしまった。はて、私たち美術家はどのようなスタンスでこの活動に参加すればよいのだろうかと。彼らは音を奏でながら歩き続ける。私たちは通常、立ち止まってその場面その瞬間を切り取って絵にする。未来派のように連続性を重視してアニメーションのような絵を一つの画面に収めたとしても、それはやはりその場の行為ではなく、切り離され独立した場での行為なのだ。
 とりあえずその場で描けそうな道具を持って行くことにした。一番入手しやすい画用紙と水性インクのカラー筆ペンを使う。両手が空くように画板を首から下げる。小学校の写生大会以来だ。
 音が出始めると、その圧倒的な「圧」というかボリュームに驚く。対峙して聞いているのではなく、音の中に入り込んでいく感覚。結果的に曲のテンポや音色、リズムを色や筆致で描き留めていくようなことになった。曲のテンポが変わると次の紙にかえて、また書き留めていく。だから、音楽隊が盛り上がってグルーブ感が出て来ると、こちらの手数も、色数も増えていく。だいたい描きすぎて絵としては破綻する傾向になる。だから盛り上がった日ほど後で見返すと全体としては「あれ?」という結果になる。
 ピクニックが終わると、ドローイングの束ができるわけだが、これは「風景の心象画」ではなく、色や筆致に変換した音楽の「記録」である。だいたい1回で15枚程度になった。こうして展示してみると一定の流れがあるようにみえる。少しは記録できたのかなと、ちょっとほっとした。



森千咲

「タルホピクニックの記録」瓢箪、ビーズ、凧糸、トレーシングペーパー、刺繍糸、カーボン紙等 2022-2023年

タルホピクニックに参加して制作した楽器(「シェケレ1~3」)は、子どもがする工作のように瓢箪に絵を描いてビーズを巻いて作っています。瓢箪という円形に絵を描いた時、矩形に形や色を配置するという絵の基本原則から脱し、始まりと終わりが緩やかにつながるような、まるで飛鳥山を歩き回っている時と似た没入感がありました。そうして作ったシェケレを振った時、音が鳴ること、歩くこと、絵を描くことが一つの大きな表現のなかにあるのだと思いました。それからシェケレを鳴らすだけでなく、時には絵を描くなどして自由気ままに参加するようになりました。
 絵を描く日は大抵列の後ろの方にいますが、伝言ゲームのように音が後方に伝わってきます。歩きながら絵を描いているとき、飛鳥山に響くように自分の体にも波紋のように音が広がってくるイメージが湧いてきました。形があるようでない、ないようである、掴めるようで掴めない、ともすれば掴めそうなものが、耳から、足から、空気からも伝わってきて、それを瞬時にアウトプットする行為は普段の制作では得られない直感的反応です。
 カーボン紙から藁半紙に転写させた作品(「タルホピクニック」)は、鉄筆で直接カーボン紙を裏からスクラッチして藁半紙に転写させています。鉄筆なので紙にうっすらと凸凹がつくだけで、直前に引いた線は自分の記憶の中にあります。濃淡のバランスを極力排除し、直感的な線の表現に徹するのと同時に、その線が転写されシンメトリーの絵が出来上がるような試みをしました。
 私が今回展示した作品は、明確な始まりと終わりがなく全てが繋がり、重なっていることを意識して制作した作品たちです。それは私がタルホピクニックに参加して得た体感そのものです。
 改めてタルホピクニックは不思議なイベントだと思います。全てに参加できているわけではありませんが、その時々、各々の音、思うことがあり、それが自然と集まって波になる、ライブハウスでライブを見るのとは少し違う体験です。ですがそこには音があり、ライブがあります。参加するたび、そのことに静かに感動しています。

                                     2025年3月 森 千咲

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