版画天国Ⅷ

2025/4/5(土)- 4/26(土)
12:00 - 19:00 月、火休廊

貝野澤章 経歴
黒須信雄 経歴 
谷充央 経歴 
広沢仁 経歴 
松丸真江 経歴

                              

ご挨拶

 「版画天国」は、版画を専門としない主に画家や彫刻家、若しくは版の原理性に深く根差した制作を続ける版画家などによる企画版画展で、なびす画廊で3回開催後、ギャラリーSIACCAにて4回、今回Gallery惺SATORUに会場を得て通算で第8回展となります。
 展覧会名は料治熊太著『谷中安規 版画天国』から採っています。それは、高度に精緻な技術を駆使した専門版画家の仕事に敬意を表しつつ、例えば創作版画の時代に見られた、版を写し取ることによる反転・転換の驚きと喜びを、何より版画の原義と考えているからです。そのため本展には、広義に版画と捉えられるものならば、例えばデジタルプリントもフロッタージュも手型や足型も人拓も寺社仏閣で配布されるお札のようなものもすべて含まれることとなります。
 版画を巡っては複数性や間接性などさまざまな観點からのアプローチが可能ですが、いずれにしても基底に転換の形式の問題があり、絵画や彫刻に於ける物質から非物質への転位・転換とどのように相違し通底するのか、またそれぞれの範疇を超えた互換的転位は如何にして可能なのか、探求されて然るべきことであると考えます。
 版画の原義性を注視することは、殊に画家や彫刻家にとって絵画や彫刻などの原義性をもおのずから浮上させることになり、版画と云う平生と異なる表現方法に触れることは画家や彫刻家の本来の仕事の根底を照らすことにもなるのではないでしょうか。
 今回展にご参加頂いた貝野澤章・谷充央・広沢仁・松丸真江の各氏、当企画の主催者Gallery惺SATORUの島田夏於氏に深く感謝致します。

                                                       黒須 信雄





貝野澤章

「向こう側より 1」ミクストメディア、ボールペン、インクジェット 25.5×30.5cm 2025年

黒須信雄

「8×8cm2面を基とする無限連鎖の端緒の1パターン」ステンシル 64.0×48.0cm ed.1/1 2024年

 〈無限〉と〈喪失〉

                                                    黒須 信雄

今回出品するのは、直接的或いは間接的に関連する四種の作品であり、それは必ずしも四點の作品を意味しない。二點一組で一作品を成すものや七枚のエディションが全て明白に異なるもの等が含まれるからである。亦、四種には版画であることを除いて様式上の共通性はない。何故これらが並置される必要があったのか。それぞれ別箇の問題を扱っていたにも拘わらず、畢竟図らずも或るひとつの問題に収斂して了ったからである。では、それは何か。無限と喪失である。一般的に考えれば、このふたつは併存しない。無限は有に喪失は無に立脚するからである。然るに、有も無も〈存在の彼方〉ではあり得ない。位相の交接點に於て錯雑するからである。意図せざるこの錯雑は寧ろ私を吃驚させた。

 具體的に四種の作品の錯雑を点検してみる。「生滅記玄白境」は、黒紙に白の円相を白紙に黒の円相を木版で刷り、各々一彫り入れては随時一枚ずつ刷り続け、軈て円相が完全に無くなるまで繰り返し、それらをそれぞれで全て綴じ合わせ一冊の本に仕上げたものである。これは嘗て「生滅記」として別々の時期に一點ずつ制作されたことがあるのだが、今回は二點一組とし外箱に納めた。白と黒を対峙的に捉えるなら、この作品に於ける営為に関して、共時的な認知が〈喪失のヴェクトル〉の多元化を齎すと考えられるからである。無論、此処に見られる円相及び営為の有限性自體に無限への道程は含まれないが、円相が内在的に持する観念連合は中心と円周を無限に解消するのであって、それ故この場合営為は反覆と云う逆説を孕み込むことで閉塞の無限性と遠く呼応することとなる。

 抑々喪失と云う観念を事物に仮託して扱おうとすれば有を逃れ得ない。嘗ての「生滅記」ではこの點を更なる逆説として取り組むことはしなかった。その時點では、版画の複数性をエディションと云う外延にでなく、ひとつの版が複数であり得ること及び生起と喪失の通底に主眼を置いていたためである。今回は対峙の齎す錯雑に基づくため、観念として設定された無が版木としては残存していることを〈付加的な〉作品にした。「無の余剰」がそれである。同一画面への指向を缺く版木の滓からは一定の作品は生み出されない。この反覆を閉塞とみるか否か、この點に無限と喪失を繊弱に繋ぐ可能性が僅かながら仄見える。

 以上ふたつの作品が直接的に連関するのに対し、「8×8cm2面を基とする無限連鎖の端緒の1パターン」及び「徐福」は全く異なるかたちで無限と喪失に遠く木霊する。前者はタイトルの通り、8cm角の正方形の全ての辺を2cm置きに絵柄上の線が通ることでふたつの正方形をどのように組み合わせても絵柄が連続するようにし、その最初の幾パターンかの例示を作品としたものである。これは端的に無限を主題とするともみえるが、一方でその端緒の提示のみに限定することで、予め可能體から現実體への道程は宙吊りにされ続ける。當然ながら此処に喪失は無縁であるが、喪失の喪失と云う重構造については亦、別箇の問題と云えよう。「徐福」に関しては、造形上には些かも無限も喪失も顕在しない。これは謂わばタイトルを通じた連想から作品イメージを読解するタイプの作品であり、蓬莱山や方壷山などをも包含しつつ博山炉へとイメージが繋がれば、さまざまな〈意味連関〉が一挙に浮上するわけである。

 版画はその成立過程そのものに、絵画とは異なる構造性を持つ。換言すれば、プレ構造とメタ構造の結節點が異なるのである。おそらく絵画に於て此処に見られる無限と喪失の反映の如きは〈存在しない〉。そして慥かに、この相違は双方にとって一考に値することではあろう。

                                               2025年3月17日 記

谷充央

「Landscape 87-V」シルクスクリーン 34.0×52.0㎝ 1987年

版のない版画

私の版画はシルクスクリーンです
べた版だけで形のための版はありません
形は摺台の上に置いておいて刷っていきます
スキージーによるフロッタージュです
現れる形体はその稜線がはっきり見えず淡い茫洋としたものしか見えません
しかも立体的に見えるため作品の裏側を意識するようになります
私のコンセプトは「裏と表です」

谷 充央

広沢仁

「木彫測定 Ⅲ」木版、ステンシル 34.0×26.0cm 2025年

最初は得意とするところのシルクスクリーンをと安易に考えていましたが、Kさんからの年賀状に「今まで版画作った事ないけど次回の版画天国に出すことになったよ」と書かれててハッとし、慣れ親しんだ技法では黒須さんからのお題に答えたことにはならないなと反省しました。それなら初めての試みとして木彫を版とした木版画にしようと、まずは過去につくった木彫の拓刷りをしてみましたが何かあまり盛り上がらない。テンションが上がらない。やはり版画制作の醍醐味は版と紙が離れるペリペリの瞬間だなと思い、次はそれに絵の具を塗って魚拓のように写してみました。しかしそれも凸凹しているのでなかなかうまく行かず、結局、新たに刷り易い平べったいポーズを作りました。つくっているうち、これイブクラインだなと思い始め、そのまま引きずられるように青で刷りエアブラシで輪郭を写しました。ペリペリの瞬間、舞い上がったり落胆したり、天国と地獄を行ったり来たりしました。

松丸真江

松丸真江「untitled」モノタイプ 40.0×40.0cm 2025年

数年、スクィージーで絵の具を伸ばしながらの制作を続けています。

それは、絵の具の現実的な質量、物質感と戯れ、また対峙する様な作業です。

そうした幾重にも重なる絵の具の層はマチエールとして成立し画面として立ち現れ、自らを刺激します。
時間を切り取り、視覚的に提示していくプロセスのようにも感じています。

以前にどこかでふと出会った一瞬の景色や、僅かに残る記憶の束を今の時と結びつけているような、
消えては立ち現れるイメージを手繰り寄せるような感覚です。

時折、今は無い実家の壁紙の色を思い出します。
自宅の隣に父の営んでいた縫製工場があり、折り重なる布の光景やミシンをかける音、匂いを感じて
育ちました。
その影響ではないのでしょうが、子供のころからこまごまと絵を描いたり、工作をしたりと、
手仕事が好きで没頭していたのを思い出します。

高校では地元に一校しかない美術科に進み、15歳の春から絵を描く生活にとっぷりと浸かっていきます。
絵を描くことが特別なことではない生活になっていく。

今もあまり変わっていない様に感じます。

松丸真江

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