江波戸龍

A small, good thing

2015/10/17(土)- 11/3(火祝)
12:00 - 19:00 月、火休廊

江波戸龍 経歴

A small, good thing

パン屋*は、続けてきたからこそ忘れてしまったことを、続けてきたものによって思い出す。
続けることも忘れることも思い出すことも、社会的にみれば個人的でささやかな事柄でしかないけれども、 個々のそれらが絡みあって、この世を成り立たせてもいるのだと思う。
だからこそ、パン屋のようにつくり続け、それを振る舞うことが必要だと感じている。
江波戸 龍

*レイモンド・カーヴァー著 ’A Small, Good Thing’(邦題『ささやかだけれど、役に立つこと』)の登場人物

注目すべき絵画試行    三田晴夫 (美術ジャーナリスト)

 思えば美術の現在を追いかけているのとは対照的に、筆者の海外文学体験はドストエフスキーやカフカあたりを最後に止まってしまっている。自分の関心が、文学から音楽に移っていったことにもよるのだが、おかげで第二次大戦後あたりから大きな比重を占めるに至ったアメリカ文学については無知同然といってよく、今回の江波戸龍展のタイトル「A small, good thing」の出典であるレイモンド・カーヴァーの同名作も読んだことがない。しかし、江波戸の内的 関心とも密接にかかわるはずなので、まずは彼から聞いた粗筋を復唱することから始めるとしよう。来店した女性から 息子の誕生日のためのケーキを注文されたパン屋の店主が、受け取りに来ない客に業を煮やして繰り返し電話をかけ続 ける。ところが、彼女の息子はまさに誕生日の当日、交通事故のため不慮の死を遂げていたのだ。病院で息子を見守っ ていた時も臨終後も、執拗にかかってくる電話に憤慨した両親はパン屋に向かう。事の次第を悟った店主は謝罪し、「こんな時にも、食べることは、“ささやかだけど役に立つこと(a small, but good thing)”なんです」といって、憔悴しきった夫婦に焼きたてのパンをふるまう。ざっと、このようなストーリーだったはずである。

 「対話の過程で失われるもの」と題した江波戸の前回個展(2012 年 11 月)は見逃したが、その図録をめくると、自我もしくは人格の形成期を物語る少女や少年をはじめ、犬、猫までがいずれも横向きのポーズで描かれていた。中でも豊 かな長い髪が波打ちながら、画面左手を向く少女の半身像を包み込む《Lost in conversation》を目にすると、図録のテキストで山内舞子氏が指摘されていたように、筆者も 15 世紀イタリアの横向き肖像画、たとえばフランチェスカの《ウルビーノ公爵》やマンテーニャの《男の肖像》などを連想しなくもなかったのである。だが、側面像でもモデルの変わらぬ威風を表現しようとしたそれらと、江波戸の横向き像との間には、決定的ともいえる差異線が引かれてしかるべきだろう。なぜ横向きの人間像に固執するのかという筆者の問いに、江波戸はこう答えたからだ。「正面から見た顔は鏡のような作用をするので、描く自分の感情や気分が投影されて剥き出しになりやすい。私はあくまでも普遍的に、かつ客観的に人間という存在を突き放して見つめ、描きたいと思っているので、特定の個人を際立たせたり、描き手たる自分が露出したりするような正面像は性に合わないのです」と。それを聞きながら筆者は唐突に、無数の鉛板片を貼り合わせた人体像で名高い現代英国の彫刻家、アントニー・ゴームリーのことを思い出したのだった。

 というのも、彼は「人間は諸関係の束である」という名言を発していたからである。江波戸の描くさまざまの身振り や所作を伴う横向きの人間像が、強烈な自我神話にまみれてきた旧来の人間観に変わって、関係の織物としての人間観に目覚めた一つの証であるとすれば、彼にとってゴームリーは決して迂遠な存在ではあるまいと思われる。さて、今回 の新作群においても、カーブした額が特徴的な横向き人物像という図と、それを取り巻く繊細なニュアンスをはらんだ 色彩空間という地とで織り成される江波戸絵画の基調は、変わることなく持続されている。もしも前回発表作との差異があるとすれば、横向きの人物たちのポーズや所作が、いささか劇的、もしくは作為的な感もなくはなかった前回発表作に比して、力みの取れた自然体ともいうべき様相を濃くし始めたところであろうか。加えて、少女もしくは若い女性が多数を占めたものの、まだ少年も描かれていた前回とは異なって、今回の横向きの人物群からは少年像が消滅して、すべて少女像や若い女性像に一元化された感がある。もしも少女像や女性像とみえたものが、少女とも少年とも、女性とも男性ともつかない、両性的な人間像へと変異を遂げつつあるものでないとすれば、の話だが。いずれにせよ、絵画には常に類型化やマンネリズムという陥穽が、その行く手に待ち構えているものだ。江波戸には、焦らず急がず、一歩一歩じっくりと力をためながら、さらなる絵画の新地平を切り開いて行ってもらいたいと思う。

江波戸 龍「A small, good thing」
¥500-(税込)
作品11点 / バイリンガル(日英) /
20.8x19cm / 16ページ
2015.10発行

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