遡行と変容

-過ごしてきた時間と描かれた絵-

2021/6/3(土)- 6/18(日)
12:00 - 19:00 月、火休廊

小林良一 経歴
藤澤江里子 経歴
渡辺伸 経歴


トークイベント音声配信
Part1 抽象絵画についての解説
Part2 三人の制作について
動画 Youtube

「三人の制作について <抽象>絵画の展開」

6/10(土)15:00 – 17:00 参加費無料 *先着40名
小林良一 藤澤江里子 渡辺伸 
ファシリテーター:永瀬恭一(画家・美術批評)
【要予約】事前に、Contact 、お電話、メール(info@gallerysatoru.com)で、ご予約下さい。
*6/10(土)15-17時はイベントの為人数によっては入場出来ない場合がありますことご了承下さい。

絵を動かすもの/小林良一                                                                    

「絵画のための絵画」について活き々きと語られていた時代があった。絵から中心を無くし、画面はどこも等価であるという理念が語られていた時、まだ未来に希望を持つことを疑わなかったように思う。

絵画は自立と純粋さを目指して、絵にとっては不純物と思われた言葉や物語を排除し、時によっては筆触や色彩までも感覚的に過ぎるものとして遠ざけたこともあったのではないか。そしてその必然的な結果として、絵画はただ一枚の画布のみというところまで行ってしまった。もうそこからはどこにも繋がらないような地点。それでも絵を描いていきたいと思った者たちは、そこから始めていくしかなく、それぞれに絵を描く理由を探しながらの制作となった。

この地点で〈具象〉〈抽象〉絵画という分け方が無効というか、変質をしたのではないかと思う。

私の場合は、外の世界のことと絵を描くことの繋がりが見いだせなかったので、絵の中のことを取り上げて制作をすることにした。具体的には絵に否応なく生じてくる地と図の領域に目を向けて、それらが絶えず入れ替わるというような過程を繰り返しながら、最終的に地と図が固定化されない状態というものを目指した。しかし、実際にはどこかの地点で着地をするしかないので、今回展示した30年近く前の作品は、随分と落ち着いたものに見える。時間が経っているということもあるかも知れないが、色彩が限定的(赤と白など)であったことが一番の理由だろう。

現在は、この地と図という二項に回収されない第三、四…といえるような項目を色彩に置き換えて画面に向かっている。混乱することも度々であるが、多様であることを思いながらの制作である。

2023・6

藤澤江里子「untitled」紙にクレヨン・オイルペイント 275×220mm 2023年

自作における遡行と変容」/藤澤江里子    

「今までにみたことのないかたちを描いてみたい」これが制作のきっかけでした。
絵画空間や画面についての課題を解決するよりまず、画面に大きなひとつのかたちを出したいと考えてました。

この考えは今でも続いています。
かたちを出していくのに色を塗っていくことより線を用いることに傾いてきました。
完成された絵画作品よりも、描くことと思考の繋がりが瞬時に結ばれたようにみえる断片的なドローイングにいっそう興味を持つようになりました。

かたちを出していくのに色というものが要らなくなり、また画面(この時は綿布に木炭)に「初め」のことを定着させたいと思いました。
綿布に木炭で線を引く作業でできた作品と面というかかたまりを描いていた作品と同時期にあります。

制作を始めた頃と今でも考えは変わってないと思いますが、色彩を使用すると色面、画面というものがそれと同じぐらい大きな位置を占めるようになります。

再び色彩が画面に戻ると、色面が覆う作品と塗られていないところが多い作品では、自ずと意識が変わります。そこにかたちを定着させることが制作における目下の課題です。

猫の耳や、新緑の葉っぱを裏返しにしたりして触るように絵画の裏側を探るようにたのしめたらと思います。

渡辺伸「麦秋–Ⅱ」キャンバスに油彩/ 330×330mm 2023年

「遡行と変容」に寄せて/渡辺伸

現代美術と言われる作品に出会ったのは美術予備校に通っていた1970年末、油絵科講師の串田治さんが楡の木画廊で行った個展でした。当時の神田・銀座周辺の画廊はもの派以降、ポストもの派が主流でした。まだ何も分からない高校生だったので最先端だ、かっこいい!と憧れました。古本屋で美術手帳のバックナンバーを買いあさり、フルクサスやハイレッドセンター、アンデパンダン展などの記事を嬉々として読みあさっていた。

芸大を目指しましたが一浪でムサビへ。当時のタマビとムサビを比べると革新と保守、抽象と具象の様相でしたが家庭の事情(経済的なバックアップが無かった)で家から通える所に落ち着く。今となって見ると愚直な絵を描く自分にとって収まるべき所に収まったのかも知れません。

大学に入ったら現代美術(抽象)をやるんだ!と、息混んでいましたが空回り。学内の有志らと勉強会と称しグリーンバーグのリーディングや自主的に藤枝ゼミなどを立ち上げ現在形で行われている美術の動向を把握しようとしていた。

実技は石膏デッサンなどの授業があったので次第に興味を失い出席せず再提出の繰り返し。この頃は学校を辞めBゼミなどに通おうか悩みつつ、学費と画材代を捻出する為にアルバイトに明け暮れ、やさぐれていました。3年に進級する際に不満ばかり述べるのを辞め自ら考え制作せねばと、版画ゼミ(のちの版画科)に属し銅版画を始める。具現化するビジョンがはっきりと掴めてなかったのでシュールレアリズムのマッタやゴーキーにヴォルス、池田満寿夫などを参考にドライポイントで鬱屈した心模様を荒々しいタッチで描いていた。ゼミは版画科になる前だったので比較的自由で校内の各学部や卒業生が制作に来ることがあり、初個展(ギャラリー・ワタリ)前の大竹伸郎さんも工房に出入りしコステロのテープをかけエネルギシュに制作を行っていました。ミーハーな気質はこの頃からで、若林奮さんをたまに校内で見かけると得した気分になる。

当時(1984年)、卒業制作には抽象は認められていません。若気の至りで忠告を無視して制作しましたが再提出。思い返すと作品そのものが良くなかった。当然、五美大展にも出品されず卒業までに描けるだけ絵を作りなさいとのお達しをされ、何とか提出し教授連に卒業後画家として作品を描き続ける事の大変さを諭されました。
20代は試行錯誤の連続で色々な作家の影響を取り入れ、具象とも抽象とも言えない作品を作っていた。当時はアクリルを使いマットな質感で線や記号などを用い、プリミティブな絵を描いていました。

80年代後半に新表現主義(ニューペインティング)が到来し多大な影響を受け、より衝動的な作風になりました。この頃はキャンバスから離れベニヤや建築用テントに布のコラージュへと移行し、次第に具体的な要素が無くなり色や形で構成。パッチワークの様に布を繋ぎ増殖的要素が増えると平面性よりも立体的(レリーフ)要素(造形的な)が強くなってきたので元々は絵を描く事を主としていたのが平面から逸脱しだしたのでキャンバスに油彩で描くオーソドックスな技法に回帰しました。

10代から60過ぎまで制作を続けていますが、まだこれだと思う作品に出会えていません。簡単に描けないので続けているのでしょう。

色や形、光と影、勢いのある線やストローク、豊潤なマチエルなどやるべき事は多々あります。今は絵画の本質へ少しでも近づけたらと筆を進める次第です。

2023年5月

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