黒須信雄 

版画2011-2026
―位相の転移―

Nobuo KUROSU Prints 2011-2026:
Iso no Ten’i-Topological Transition


2026/7/2(木)- 7/25(土)
12:00 - 19:00 月、火、水休廊
最終日17:00まで
7/4(土)17:00 – artist talk

黒須信雄 経歴
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Artist Talk

 2011年から2026年までの黒須信雄版画作品を、未発表のものも含めほぼすべてを展観致します。版種は木版画・ステンシル・紙版画等、作品形態はシート状のものから立体・本・軸装等で、これらは版画の複数性(反復性)間接性をさまざまな視点から考究したものです。主に企画展「版画天国」(Ⅰ~Ⅸ)で発表された展示作品約20点、シート約100点で構成致します。

This exhibition presents a nearly complete survey of Nobuo Kurosu’s prints produced between 2011 and 2026, including previously unpublished works. The exhibition encompasses a wide range of printmaking techniques—including woodcuts, stencil prints, and paper plate prints—as well as diverse formats, from individual sheets to sculptural works, artists’ books, and hanging scrolls. Together, these works explore the multiplicity (repeatability) and indirectness inherent in printmaking from a variety of perspectives. The exhibition features approximately 20 exhibited works and around 100 print sheets, primarily selected from the exhibition series “HANGA TENGOKU” I–IX.





    版画に於ける位相の転移についての覚書

                                                  黒須 信雄

 日夏耿之介ゆかりの版画家となればまず何より長谷川潔であろうが、谷中安規も亦、日夏からの書簡を生涯大切にしていたと云う。尤も、谷中がより親密に関わったのは内田百閒である。それぞれの詩人・作家と版画家の取り合わせには資質の差が如実に反映していて興味深いけれども、一方で深く通底するものも感得される。実在と非在の、現実と非現実の、或いは此岸と彼岸の〈あわい〉への視座である。言葉は〈あわい〉に留まることで詩(より精確には詩としての言語)となり現実をして現実を超克する契機を与えるのだとすれば、其処には幾重もの位相の転移が刻印されてもいよう。版画が詩或いは詩的文藝と相性がよいのは、版画も亦、その生成工程に或る種の位相の転移を内包しているからであろう。無論、此処に云う〈位相〉とは厳密な意味での数学的概念ではなく、謂わば〈存在形式の相〉であり、無限動態に於ける非層としての層の契機的顕在の様態のことである。然るに、実際的な版画制作の工程に於ける転移は、その儘では存在形式に関わることはなく、単層的なものに過ぎない。版画を位相の転移と成すのは〈工程の意識化〉なのである。工程を単なる作業過程と捉える限り、存在形式の位相が現出することはない。乃ち、版画が自體的形式を実現することはない。位相の転移をどう意識化するかが、〈原理としての〉版画の生成工程なのである。
 この場合の版画は當然ながら、所謂技術や技法としてのそれを指していない。それは、その本質である間接性と複数性ですら、意識構造としての複層化に於てしか意味を持たない、或る特定的機能を有する装置なのである。では、その特定的機能とは何か。反転の〈内包と外延の双方向的転移〉であり、反転の更なる動態的反転である。従って、それは実践的な制作工程自體なのではなく、その工程から齎される〈間接性としての〉存在形式転換である。換言すれば、この存在形式転換は存在形式を存在形式に至らしめない処の可能態に留まるのであり、絵画の実質である存在論的未成ではなく、方法的且つ実践的な意味での未成なのである。つまり、全方向的ベクトルの基點としての未成なのである。おそらく、この未成が自ずから生成することはない。それが生成へ至るには更に原理的遡行である処の方法意識の反転が必要となる。原理としての版画の逆説性はこの點にこそある。何故なら、それは実際上の制作に於ける可能性を逆転させることであり、延いては不可能性へ結ぶことだからである。その意味では、原理としての版画は実作としての版画から一旦、完全に分離されなければならない。その上でいま一度、生成への方途を探るとき、〈間接性としての〉存在形式転換は存在論的遡行意志と遠く近く木霊し始めるのである。
 私が版画に於てその可能性より不可能性に謂わば親炙の念を覚えるのは、簡略に云えば以上の如き理由によるのだが、この不可能性は當然ながら絵画の本質的な不可能性とは異なるものであり、方法意識の反転にこそ反映される態のものである。無論それは、単純に方法の反方法化や可能性の縮減などではないけれども、尠なくとも表現の減退ではあるだろう。そしてそれは、結果として或る種の貧しさ乏しさを齎す。とは云え、この貧しさ乏しさは決して豊かさに反転することはあり得ないものの、それとは異なるベクトルに於て反転を内包し続け、〈存在しない〉内在的な場に於て無極點(=ゼロポイント)を通過することで、反転の反転として塵の如き骸を残す。畢竟、不可能性の先に顕れる版画は死物なのである。そして、〈私の死〉は存在しない以上、あらゆる死は死物としてしか認知され得ず、〈他者〉を通じてしか感得できない。とすれば、版画に於ける他者性こそが絵画に死の認知を齎すのではないかと、取り敢えず仮定することはできる。とは云え、絵画に於ける死の認知とは何であろうか。抑、絵画に死の認知などあり得るものであろうか。嘗て幾度となく語られてきた絵画の死とは、或る特定の絵画概念の無効化を意味していたに過ぎず、絵画自體が孕み込むかもしれぬとされる死とは全く無関係である。仮に絵画が死を孕み込むことがあり得るとしたら、それは他者性を孕み込むことでもあるから、或る種の主體が想定されなければならないが、無論そんなものが絵画にある筈もない。絵画とは一般性に於ても個別性に於ても基本的に存在形式としての位相の転移だからである。とすれば、絵画に於ける死(及び死の認知)とは外在であり外延である処の内包ベクトルでなければならない。その點からすると、版画の方法的死物性は絵画のプレ構造とメタ構造と深く共鳴するものでもある。
 以上は版画を絵画との関わりに於て捉えた場合のきわめて大雑把な断片的一考察であって、版画を飽くまでも自律的な表現様式として見るならば自ずと異なった道筋が辿れようが、それは版画の〈表現者〉でなく、亦、版画の可能性について些かの定見もない私などの考えるべきことではなかろう。私はただ、必ずしも積極的・能動的に版画と関わってきたとは云い難い歩みの中で、それでも振り返れば尠なからぬ版画作品を残してきた不思議を自分なりに考えてみたまでなのである。視界明瞭とはいかなかったものの、版画と云う一種の反転の位相的転移が無意識裡に絵画をさかしまから眺望する視座を導出していたこと、それが偶さかでなく或る必然性を有していたことを改めて感じてはいる。そして慥かに、尠なくとも私の制作にあっては、絵画が表現様式を超脱し存在形式転換の顕現としてのさまざまな〈展開〉へと開かれる〈ひとつの〉契機に〈原理としての版画〉が与していたことは否めない事実であった。
 とは云え、実際に残された版画作品の貧しさ乏しさが私を鼓舞することは、いまの処ない。

                                            2026年6月25日

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