
Dialogue with nature
2025/6/7(土)- 6/28(土)
12:00 - 19:00 月、火休廊
*最終日17:00迄
アーティスト・トーク
6/7(土) 17:00 – 18:00
音声配信はこちら
普段自然との関わりを大事にされている三名のアーティストにご参加頂き、それぞれの自然観や自然との向き合い方等「自然」に注目し作品を展観します。初日17時よりアーティストトーク、会期中に音声配信を行います。
野沢二郎
茨城県北の自宅周辺には、田園が広がっています。私はその風景の中で、米作りをし、絵を描いています。農業と制作を一連の時間の中で行っているせいか、共通の感覚を覚えます。思えばもともと、農業agricultureは、文化cultureと繋がっています。
1. 田んぼに水を入れ、トラクターで代掻きをした後の風景。
水鏡に映る風景と、水面から顔を出す土は、絵画の空間と絵の具の物質感の共存を想起させます。
2. 良好な土壌をつくる為に、秋から春にかけて幾度か行う耕起。
私の制作の8割は、地塗りのようなものです。絵の具を乗せて削ぐことの繰り返しの中で、完成への芽を見つけます。
3. 土と水が「ひたひた」状態で行う代掻きハロー(均すための大きなヘラ)での作業。
スキージーを使って、絵の具の表層に潜むイメージを探しています。
4. 矩形の田んぼでは、耕起も田植えも四隅が難しい。
矩形のキャンバスの四隅でいつも迷っています。
5. 毎朝、田んぼ廻りを一周し、稲の育ちを確認する。
愛情を持って「育てる」感覚で制作しています。パウル・クレーは絵画を植物に例え、画家の立場を「生成」の仲介者だと言っています。
山神悦子
10年ほど前から海岸や川辺、山の岩場、採石場など岩石が地表に現れている場所に取材するようになった。
そこに身を置くと地球が辿ってきた長い時間が感じられ、大自然の中では人間が小さな存在であることを思わざるをえない。
現地ではスマホで写真を撮り、感動した風景を記憶する。後日制作する時には紙やキャンバスを前に、写真を見ながらその記憶を呼び覚ます。
対象をそのまま再現するのではなく、線の取捨選択、固有色をどの程度生かすか、全く別の色に置き換えるかなどの造形的な要素を考えることに加え、時々この対象の何に心を動かされたのかを思い出しながら描画する。その一連の思索と行為が私にとっての「自然との対話」であり、同時に「自己との対話」にもなっている。絵を描くことで小さい自己を超え、大自然の一部になりたいと願っている。
今回はキャンヴァスに油彩の作品と紙にオイルパステルの作品を展示する。どちらの素材も何度も考え直しながら塗り重ねて制作することができるので、私の考え方に合っているメディアだと思う。
渡辺伸
見馴れた景色 ~水辺を歩く~
AM9:00 3月下旬
まだ少し肌寒いが、〜春のうららの隅田川♪〜を口ずさみながら向島の自宅から京橋の会社まで隅田川沿いを1時間ほど歩く。川波に揺らぐ光は、毎日見ても飽きが来ない。東京湾に近いせいかユリカモメやウミネコが飛び交い、コサギに鵜が身を沈め魚を捕食した。川沿いの隅田公園で突然降下したハヤブサに、鳩が豆鉄砲を食らい餌となる。何の変哲も無いコンクリートに囲まれた処だが食物連鎖を感じた。
PM7:00 5月下旬
銀座線浅草駅を降り、少し歩くとスカイツリーが目の前にそびえ立つ。かつてのシンボル浅草十二階ビル(凌雲閣)は関東大震災で崩れ落ち、東日本大震災の翌年スカイツリーは着工した。夜の隅田川は首都高6号線を疾走する車や屋形船の提灯、ライトアップされた橋など色とりどりの光が交差し、水面をキャンヴァスに見立て揺らいだ一瞬がリヒターの絵のようだ。デコレーションで着飾ったそれらは都会の特権かの様にはしゃぎ、まるで3.11が無かったかのような趣きだ。快適性を求めそこで暮らしている自分も何者なのか考えるべきだ。
再現性のある絵を描いていないが、日々接する景色、例えば靄が掛かった橋などが出現するとモネのテムズ川「チャーリング・クロス橋」の連作が頭に浮かび、にわか雨に慌てて傘を差し橋を渡る人々に広重の「各所江戸百景」と交差し、脳内シャッター音が響き網膜に映像が焼きつく。歩行中にああでも無い、こうでも無いと夢想する時間は澱のように蓄積発酵し、やがて自我を形成する。私と言う存在が少しでも社会と関わりが出来ればと制作している。