江波戸 龍 -対話の過程で失われるもの-

江波戸 龍 -対話の過程で失われるもの-

 11月3日(土・祝)よりGallery惺SATORUにて「江波戸龍―対話の過程で失われるもの―」を開催致します。

 江波戸龍(えばと りゅう)は2010年に多摩美術大学大学院絵画専攻領域を卒業。人間が本来持っている不安や恐怖心といった、あまり人には見せたくはない心の揺れを描いてきました。

 人と人が対話(言葉)によって理解しようとしても、実際には完全に理解することは出来ません。言葉だけでは不完全であることや「伝わらないが大切であるもの」を見ようとすることを視覚化しようとしたのが今回の展覧会です。

 本展で展示される作品はすべて横向きの人物像(または動物)で、その視線の対象は特定されていません。しかし作品を観る者は、横顔のため無防備になったその表情やしぐさを見つめることにより、言葉では伝わらなかったものを汲み取るが出来るのです。作家が社会に出て体験した人間関係、コミュニケーションの複雑さ、もどかしさを感じながら制作したと言うこれらの作品を通し、対話というものが持つ様々な問題について考える機会になれば幸いです。

Gallery惺SATORU

 

 

2012年11月3日 (土) ―  11月25日(日) 月・火 休廊

12:00 ― 19:00(最終日17時迄)

*Artist talk 12月1日(土)15:00 ―

*Openingreception 11月3日(土)  17:00 ― 19:00

対話の過程で失われるもの

対話の過程で失われるもの

わからなさ というのが制作の糧である。

学生の頃は自分へのわからなさが一番に比重があったのだけど、

社会に出た事で多くの人と関わるようになったここ3年は、

わからなさの対象として対話に比重が移って行った。

 

心の中にあっても言葉にしようとすると遠ざかってしまうもの

意思の疎通は出来るのに完璧ではない事を発見した事は

心と言葉 言葉と言葉の間にある失われたものを意識させられた。

それは目に見えないし言葉にできないものだけど、

大切なものであるという感覚があり、

なんとか拾って形にしたいという思いがある。

 

表現されたもの 語られたものが全てでは無くて、

その奥の想いの様なものを汲み取る事が、

今の僕には必要なのである。

 

-江波戸 龍

 

 

江波戸 龍  / Ryu Ebato

1984 東京に生まれる

2008 多摩美術大学卒業

2010  多摩美術大学大学院 修了

個展:

2009 "Emotion" アートアイガ

2012 11月3日-25日 Gallery惺SATORU

グループ展:

2008 "FIXED POINT 08" Gallery惺SATORU

 

2010 "FLOWERS~Like a wildflower" Gallery惺SATORU

2012 "迎春展" Gallery惺SATORU

まつげの角度-光のもとで  山内舞子(美術評論家)

 

「ピカーン」「ズモモモモ」。そんな人工的な音が聞こえてくるようだった。2009年の初個展で発表された作品で、江波戸が描いた子どもたちはその目から光を放っていた。フィクション性の強い絵画だと思った。それはパーツ自体が光っているというよりも、彼らの皮膚の内側にまるで発光体を含有する詰め物が充填されているかのように思えた。

 

 私は美術史の中にある2つの作品を連想した。ひとつは赤瀬川原平の『宇宙の缶詰め』(1964年)、そしてもうひとつは京都・高山寺に伝わる『仏眼仏母像』(鎌倉時代)だ。『宇宙の缶詰め』は、空き缶の内側に、本来であれば外側に貼られるはずのラベルを内側に貼ることで缶の内外の関係を逆転させ、宇宙までもをその内側に封じ込めた作品である。そしてもう一方の、『仏眼仏母像』は仏教において「智の象徴としての眼力」を神格化した「仏眼仏母」を描いたものだ。このふたつの作品が思い出されたのは、おそらく、子どもたちが身体の内部に光源を 抱 いだ  いていること、そしてまなざしそのものがその実体を具現化しているような成り立ちによるのだろう。

 

 だが、光を放つその目が視覚的に何かを認識できる機能を持っていたかどうかは疑問だ。というのは、眼孔を開口部としてそこから光が放出されているのであれば、その視界はホワイトアウトのような状態となって外界の知覚は難しいのではないかと思えるし、さらに自由な想像が許されるならば、2010年に発表された作品『花盛り』のなかに見られた花びら占いという行為は盲目の恋や論拠なき予測というもの思い起こさせるからだ。これとは別に、劇的ともいえる非日常的なポージングもまた絵画に謎めきを与えている。作家によれば、それはふと目にした子どもの動作に着想を得たものであるということなのだが、私の目にはそれが「あての無い動作をいろいろと試みる」ことで自らが「発光している」理由、あるいはより根本的に「存在する」理由を探ろうとしている行為のように感じられた。

 

 そして2012年。3年振りの個展で発表される江波戸の作品は、作家が新たな地平を目指し始めたことをはっきりと示していた。以前の作品との大きな違いは、子どもたちはそれ自身の身体から光を放つことがなくなり、その瞳は網膜に外光を受けて世界を知覚するようになっていたということだ。さらに彼らは、視角や瞼の高さを変えることで、外から入り込んでくる情報を意識的または無意識的に制御するようにもなっていた。私は、今度は15世紀のイタリア絵画を連想した。その理由は真横向きの人物像がピサネロやピエロ・デッラ・フランチェスカによるポートレート、あるいは色調においてフレスコ画に通じるような乾いた空気感との共通点を示していることによる。また、これに加えて『与える者』は6世紀から7世紀にかけて制作された観音像に見られる側面観を強く思わせた。

 

 その子どもたちの姿は、彼らの心理状態への推察へと鑑賞者をいざなうだろう。だが、多くの作品においてその視線の先にあるものは明かされておらず、その属性あるいは周囲の環境に関するヒントも捨象されている。音も聞こえてこない。

 

 つまり、作品の前に立った者の視線の動きは、最初に人物の目や頭部そして身体部分を捉えたあと、何かしらの情報を求めて周囲へと移り、具体的に何かが描かれていることのない場所を巡ってはみるのだが、最終的にはやはり目許あたりに穏やかに帰着していくことになるのである。だが、このような視線の回遊は、知らず知らずのうちに画中の人物に対する親近感を見る者の心の中に湧出させてくれることも確かだ。

 

 かつての光を内蔵した子どもたちは、小道具とともに舞台設定済みのストーリーの中に置かれながらもその存在理由に対する疑問(疑念といってもいい)を濃厚に内包しているように見えた。しかし、いま目の前にあらわれた子どもたちは「知覚」と「思索」の間をゆらぎながら、世界と自分との関係性を探り始めている。いずれも横向きに描かれた彼らは、こちらとまなざしを交わすことが出来ないという点では以前の子どもたちと重なるが、けれども、無防備とさえ思えるようなプロフィールが明らかにするまつげの角度は、我々が彼らの心の向きに寄り添うことを可能にしてくれるだろう。やさしく、静かな光のもとで。